「あの頃のロマンポルノ」 by キネマ旬報

 

第24回 「田中登が永遠に持ち去った次回作」

 日活ロマンポルノは生誕50年をむかえました。それを記念して、「キネマ旬報」に過去掲載された記事の中から、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げていく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時連載していきます。(これまでの掲載記事はコチラから)

 今回は、先日世界三大映画祭の一つヴェネツィア国際映画祭にて『㊙色情めす市場』の4Kデジタル修復版の上映が発表された田中登監督についての北川れい子氏による追悼記事、「追悼 田中登監督」を「キネマ旬報」200612月下旬号 より、転載いたします。

 1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく!

■田中登が永遠に持ち去った次回作
 こういう言い方は感傷に過ぎるのかもしれないが、1人の監督の死は、やがて作られたかもしれない傑作の、永遠の喪失に近いものがあるのではないだろうか。

 新聞の片隅に載った田中登監督の訃報を目にしたとき、フトそんな思いが心を過ぎった。
 104日、急性動脈瘤解離で逝去。享年69

 家族とふだん通り朝食をすませ、自室に入ったあと暫くして倒れたらしい。側に置かれていたTVドラマの脚本には多くの書き込みがあったという。『妖女伝説’88(88)以降、活躍の場はずっとドラマだった。

 この話を通夜の席で、田中監督と日活同期入社(61)小沼勝監督からお聞きしたときの、心から無念の思いが伝わる口調が、あらためて田中監督の永遠の不在を実感させた。


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▲『人妻集団暴行致死事件』を演出中の田中登監督(左から2番目)


 日活がロマンポルノ路線に踏み切ったのは7111月で、その翌年の2月公開『花弁のしずく』で監督デビュー、続いて『牝猫たちの夜』『夜汽車の女』など、この年だけで5本の作品を撮る。


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▲『牝猫たちの夜』から


 ロマンポルノがプログラム・ピクチャーだったことがデビュー年に5本という量を可能にしたのだったが、田中監督はその一作一作に超現実的な映像表現を盛り込み、時にはフェティッシュ、時には華麗、時には重厚、耽美的に、その作品世界のイメージをふくらませ、のち田中美学ともいわれたシュールな手法に挑んでいったのだった。

 ビルから身を投げるホモ青年の体がビニール傘に置きかえられゆっくりと落ちていく『牝猫たちの夜』。死を寄り添わせた妖しくも忌まわしいイメージで、姉妹心中への道行きを描いた『夜汽車の女』。

 田中監督は、当初、表現の解放区に近い状態にあったロマンポルノというフレームの中で、まさに水を得た魚のように、時代のエッセンスを敏感に取り込みながら、独自の映像センスに磨きをかけていくのだが、73年、大胆、かつ斬新な手法で『㊙女郎責め地獄』を撮る。日本映画監督協会新人奨励賞を受賞したこの作品は、中川梨絵が演じる百文女郎・死神おせんの、甘美で非情な性の地獄めぐりで、人形に見立てられたおせんが黒子に操られるなどの様式的演出がめくるめくほど美しく、映像の黒味の濃密度からしてただならぬものがあった。おせんが終盤に眩く「どこへ行こうとこの世は暗闇地獄」(脚本・田中陽造)という台詞の誇らかな潔さ。

 そして74年、大阪・釡ヶ崎の若い娼婦(芹明香)を主人公にした『㊙色情めす市場』を地を這うようなリアリズムで撮る。通天閣から生きたニワトリが吊るされるこの作品のザラついた暗うつ感は、田中美学の入る余地もないほど重くささくれてアナーキーだった。


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▲『㊙色情めす市場』から


 聞けばこの作品は、当初「受胎告知」というタイトルでATGで撮るはずだったとか。

 実は長野県生まれの田中監督は、突然の不幸がなければ1013日から松本市のエンギザで行われる自作の上映会でトークをすることになっていて、本人が選んだという6作品が並んだそのチラシには傑作中の傑作『実録 阿部定(75)と並んで『㊙色情めす市場「受胎告知」(原題)』とある。よほどのこだわりがあったのだろう。

 ああ、それにしても『実録 阿部定』の何という女の性の勝利感。好きで好きでたまらない吉蔵(江角英明)と安宿にこもった定(宮下順子)は、兵士がうろつく世間を閉め出して性愛をむさぼったあげく、性戯のじゃれ合いで使っていた腰紐で吉蔵の首を絞め、男根を切断する。それを懐にしのばせた定は足尾銅山跡に立ち寄り、逮捕され車に乗せられても慌てず騒がず興味なさそうに、二重橋を一瞥するだけ。徹底的に無視される国家権力

 「田中さんは凝り性だったからなア」「うん、現場でいつも闘ってたね」とは、通夜の席で耳にした日活のかつてのスタッフらしい人の会話だが、実際、監督本人からその辺のことを聞いたことがあった。

 04年にムック本『荷風!』の新宿特集の取材で、新宿が舞台の「牝猫たちの夜」「真夜中の妖精(73)、『ピンクサロン・好色五人女(78)などを通して、70年代の新宿の表情を語って頂いたのだが、1時間の予定が2時間半にも及んだその話は、当然、他の作品に話が広がり、中でも印象的だったのは、極寒の日光・戦場ヶ原でロケをした『発禁本「美人乱舞」より責める!(77)の現場。

 深夜、監督はスタッフと2人で氷の、張った池にゴムの合羽姿で潜ってドラム缶を設置、翌日のロケではそこにぬるい湯が入れられたが、長嬬祥一枚の宮下順子はあまりの寒さに失神、撮影を終えて宿に帰ったら、「順子がね、監督、殺してやると泣きじゃくってんの()。撮影で殺されるなら本望だね、僕は()」。

 そして痛烈な傑作「人妻集団暴行致死事件(78)。狭い浴槽で妻の遺体をかき抱く室田日出夫の哀しみは、性の聖なる儀式のようだった。

「次回作を考えない監督はいませんよ。確かに映画はずっと撮っていないが、いますぐにでも撮れるし、絶対に諦めない」

パワフルな話し方がいまでも耳に残っている。そう、田中登監督は未完の傑作を持ち去って逝ったのだ。ただ口惜しい。

文・北川れい子
「キネマ旬報」200612月下旬号より転載


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