日活ロマンポルノ

日活ロマンポルノとは

ROMAN PORNO

日活ロマンポルノとは

Nikkatsu Roman Porno

1971年-88年の間に製作・公開された成人映画で、『団地妻 昼下りの情事』(西村昭五郎監督/白川和子主演)と、『色暦大奥秘話』(林功監督/小川節子主演)が第1作。わずか17年の間に約1,100本公開された。
一定のルール(「10分に1回絡みのシーンを作る、上映時間は70分程度」など)さえ守れば比較的自由に映画を作ることができたため、クリエイターたちは限られた製作費の中で新しい映画作りを模索。そして、キネマ旬報ベスト・テンや日本アカデミー賞に選出される作品や監督も生まれた。

また、通常3本立ての公開を維持するため量産体制を敷いたことにより、若い人材が育成された。中平康、鈴木清順、今村昌平ら稀代の才能をもつ監督のもと助監督として経験を積み、ロマンポルノの中で作家性を発揮した監督として、神代辰巳小沼勝加藤彰田中登曾根中生ら若き才能が生まれ、あらゆる知恵と技術で「性」に立ち向い、「女性」を美しく描くことを極めた。
ロマンポルノから出発した監督には他にも村川透、根岸吉太郎、金子修介、石井隆などがいる。80年代に入り家庭にビデオデッキが普及し、アダルトビデオが低料金でレンタルできるようになると、日活ロマンポルノの劇場に足を運ぶ人は次第に減り、1988年4月、日活はロマンポルノの製作を終了すると発表。 トリュフォーが神代の『四畳半襖の裏張り』を観て感嘆したとか、ニューヨークでの神代の特集上映が満席だったなど、ロマンポルノで活躍した監督たちの回顧特集上映が、国内海外で、現在も頻繁に行われている。

日活ロマンポルノが生まれた時代背景

Nikkatsu Roman Porno was born era background

50年代映画界は、フランスにおいてトリュフォーや、ゴダールらの「ヌーヴェルヴァーグ」がおこり、日本では60年安保と錯綜するかのように現れた「松竹ヌーベルヴァーグ」といわれる大島渚監督らの新しいムーブメントによって、映画界が変わろうとしていた時期だった。そして、唯一の娯楽が映画であった時代から、カラーテレビの普及や娯楽の多様化により映画界の斜陽化が始まった。

社会的には、安保と全共闘時代のうねりのあと、高度経済成長が進み世の中が豊かになっていく一方で、革命の夢を捨てきれない若者たちの間では「シラケ」「挫折」という言葉がこの時代の気分になっていた。このような時代の流れの中で、日本最古のメジャー映画会社がポルノ路線を製作の中心に置くと発表したことは「天下の日活が、なんでポルノに」と、日本映画界の斜陽を象徴する社会的な「事件」だった。

この時代背景の中で、セックスとバイオレンスに活路を見出していた日本映画界の動きとともに、ロマンポルノは、若者たちの知的興奮を駆り立てて、熱い共感をあつめた。と同時に、神代の映画の題材にもなったストリッパーの一条さゆりへ猥褻物陳列罪で実刑判決が下されたり、ロマンポルノが公開直後に、摘発、起訴されるなどの社会的な事件などが後押しして、若い世代の反体制の象徴としてロマンポルノを指示する声が広まってくる。

ピンク映画とロマンポルノの違い

Pink film and romance porn of differences

ロマンポルノより以前に製作されていたピンク映画は、独立映画プロダクションが提供する低予算で製作された成人映画。予算の都合から基本モノクロフィルムでの撮影で、パートカラーといわれ、絡みのシーンのみカラーフィルムという作品が多かった。ピンク映画が、パートカラーと呼ばれたのに対し、ロマンポルノは、最初から全作品オールカラーを売りにしていた。

製作に関しても、ロマンポルノは、一般映画の製作費の4分の1という低予算、製作日数10日間、スタッフも一般映画の半分という状況ではあったが、2、3人で製作していたピンク映画に比べるとはるかに規模が違っていた(※当時の製作費は、一般映画で3,000万、ロマンポルノで750万ほどといわれる)。

100本以上のピンク映画の出演を経て、ロマンポルノ第一号女優の白川和子も、ピンク映画とは比べものにならない大掛かりなセットやスタジオ、スタッフの人数などの"東洋一のスタジオ"といわれた撮影所のスケールに「ハリウッドにきたかとおもった」と当時圧倒されたことを語っている。
※『(秘)色情めす市場』が本編ほぼモノクロで、途中カラーパートになるのは、演出意図による。

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