「あの頃のロマンポルノ」 by キネマ旬報

 

第13回 小沼勝の華麗なる映像世界

2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえました。それを記念して、「キネマ旬報」に過去掲載された記事の中から、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げていく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時連載していきます。(これまでの掲載記事はコチラから)

今回は、「キネマ旬報」2001年2月上旬号より、北大路隆志氏による企画特集「小沼勝の華麗なる映像世界」からの記事を転載いたします。

1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく!

「ロマンポルノへの誘い・小沼勝小論」
ただ女たちの存在を輝かせるためだけに存在する・・・リアリズム無視の過剰さが独自のリアリティを醸し出す

 小沼勝の監督作品はほぼ全て1971年に登場した新種のプログラム・ピクチャー、「日活ロマンポルノ」の枠内で撮影されている。輝かしい伝統を誇る映画会社である日活が諸般の事情からロマンポルノ路線に活路を見出し再生を図ろうとした時期に、小沼は映画作家としてデビューし、そうしたギリギリの路線さえ消滅するまで、この枠組みの外で映画を撮ることはなかった(その点、たとえば、この路線が生んだもう一人の巨匠である神代辰巳と異なる)。

 だから僕たちは小沼勝を論じる際に、どうしても「日活ロマンポルノ」とは何だったのか、という問いの前に立ち止まり、真剣に再検討する必要性を感じてしまうのだ。

 日活ロマンポルノとは何か?少なくとも小沼にとって、それは日活が得意としていた「アクション映画」の換骨奪胎化された(女性化された?)継承だ。中田秀夫によるドキュメンタリー『サディスティック&マゾヒスティック」の中で、小沼はSMの女王谷ナオミをアクションスターとして称え、彼が下積み時代に日活アクション映画から学んだ原則であるリアリズムとリアリティの差異について言及している。誰もが知るように日活アクション映画はいわゆるリアリズムから程遠い。だけどそこにリアリティが欠けているわけでもない。銃が撃たれ、嘘のように馨しい血が流れるがゆえに出現するリアリティ、つまりは嘘でしか生み出しえない現実感こそ、小沼にとって映画の基本原則を成す。あるいは、現実には存在しえない人物をそれでも涼しい顔で主役として登場させること......それが映画に許された特権であり、小沼作品の中でとりわけ谷ナオミが現実的にはありえないがゆえにリアリティを増すアクションスターを演じる。

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▲『生贄夫人(1974年製作) 主演:谷ナオミ

 小沼の演出による男女の絡みは、小沼作品の代名詞であるサドマゾ的な装置が介在しなくても、かなり不自然な身体動作に及び、そうしたリアリズム無視の過剰さがむしろ独自のリアリティを醸しだし、中田が感嘆するように、素晴らしいラブシーンを生む。そもそも誘拐され、性的陵辱を受けつつ監禁されている女性の脱出劇という、SM映画の定型は、アクション映画のそれにほぼ等しいではないか。そんな意味で、小沼は神代よりむしろ日活がロマンポルノ路線を選択する数年前に解雇した鈴木清順と比較されるべき映画作家だ。彼らの映画はたとえ異様な外観を呈し、意味不明な「イメージ・ショット」が挿入されていても、理詰めで絶妙な編集によって組み立てられ、エモーション(感情)ではなくモーション(運動)によって成立するアクション映画である......という点において。そしてたぶんその結果として、彼らの映画を特徴づけるポップな平面性において(絵によって全てを語ること...小沼はもともと画家志望だった)

変貌を受け入れる女性とそれを拒絶する男性

 さらに僕の考えでは、ポルノ映画は根本的にある逆説を抱えている。たとえば、ポルノ映画は誰を観客に想定し撮影されるのか?ロマンポルノ路線に突入した当時の日活は、監督たちが同僚の作品の試写に熱心に詰めかけ、互いに批評しあう環境にあったという。これ自体は感動的で重要な映画史的エピソードだ。僕たちが後年「最後のプログラム・ピクチャー」と呼び、ある種の定型に従って量産される映画群として捉えてしまう「ロマンポルノ」が全く未知の領域だったとき、映画作りに関る人々がそれぞれの立場で新種のプログラム・ピクチャーの定胆を模索していたのだ(十分に、一度はセックスシーンを入れること、予算の関係上、アフレコで音声を付加すること等々の原則は確実に存在し、その原則が小沼作品を構成する重要な要素になるのだが......)。だけど再びロマンポルノを誰が見るのかという問いに戻れば、小沼は仲間内の監督の批評など聞きたくもなかった、むしろ自作がかかる映画館に出かけ、そこで映画を見つめる観客の反応を注視したと語っている。そう、「日活ロマンポルノ」の枠組みで撮影された映画で観客の大多数を占めるのは、昼休みに会社を抜け出して三本立ての映画館に潜り込みその中の一本半ほどを眺めた後でいそいそと席を立つサラリーマンであり、何らかの事情で一日の大半を映画館で過ごすことができて競馬新聞を片子に煙草をくゆらす男たちである。単純な事実の確認にすぎないが、ロマンポルノそして小沼勝が演出する作品群は、そうした男たちのために撮られていたのだ。

 だけど、小沼勝作品が根本的に孕む逆説は、まさにこのバカバカしいほど単純な事実に起因するだろう。問いを変えてみればいい。ポルノ映画は男たちのために撮られている。では、ポルノ映画は誰を撮っているのか?あるいは誰に熱い視線を向けているのか?答えは同じくバカバカしいほど単純で、女たちだ。男たちはただ女たちを見るためだけにポルノ映画館の暗闇に潜りこむ。だから、僕が考えるポルノ映画の逆説とはこうだ。ポルノ映画は男たちの(主に性的、少し映画狂的な)欲望のはけ口として撮られていたが、そこで映し出されるのは、男たちを排除した女たちの世界であり、ポルノ映画はただ女たちの存在を輝かせるためだけに存在する・・・・。

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▲『ラブハンター 熱い肌(1972年製作) 主演:田中真理

 小沼の映画での女性と男性の際は、前者が変貌を受け入れるのに対し、後者はそれを拒絶する点に集約される。小沼作品の女たちの多くは、『生贄夫人』の谷、『妻たちの性体験 夫の眼の前で、今・・・』の風祭ゆき、『箱の中の女 処女いけにえ』の木築沙絵子らがそうであるように、秘められた本性の発露とも性の目覚めともとれる変貌を遂げたり、『ラブハンター 熱い肌』の田中真理や『昼下りの情事 古都曼陀羅』の山科ゆりのように家族や夫婦等々の偽りの拘束からの離脱を決意する。ところが、男たちは女たちの変貌を促す術を持たず、彼女たちの前から退散するか主導権を奪われるしかない。言葉を換えれば、女性たちは複数に増殖(変貌)し、無方向に拡散する様々な模像を生むが(『濡れた壷』のマネキン人形、『OL官能日記 あァ!私の中で』のヒヨコ、『昼下りの情事 古都曼陀羅』で山科のスカートから零れ落ちる無数の白いピンポン玉......)、男たちは単数的な存在にとどまる。あるいは、男たちは徒党を組むことでしか女性の複数性に対抗できないのかもしれない。『妻たちの性体験 夫の眼の前で、今・・・』の風祭が一人で担う複数性に対抗するために、いったい何人の男たちが彼女に立ち向かっただろう?小沼作品ではしばしば軍隊への郷愁に惣かれた老年の男たちが戯画化されて登場するが、むしろそこからは徒党を組むことでしか女性の複数性に対抗しえない男たちの無力さや惨めさばかりが滲み出る......。こうして、小沼作品が性転換されたアクション映画であり、男たちに向けられた、しかし(だからこそ)女だけが輝かしい複数性を担う映画であることが確認された。もちろんフェミニズムの論理でいえば、ポルノ映画での女たちの表象は男たちの視線に晒されるべく構成された歪みの産物であり、女たちが輝き勝利するとしても、男たちの快楽に貢献するためでしかない。だが今や小沼の映画が女たちの世界であることの意味を反転させる好機が来たのではないか。日活ロマンポルノは制度として崩壊し、男たちが小沼作品を専有する権利などない。小沼が12年ぶりに撮った新作『NAGISA』の予想を超えた素晴らしさは、そんな僕たちの展望を勇気づけてくれる。この少女を主人公とした映画はすでに男たちのために撮られていないし、少女はいかなるフェティシズムの対象ともなっていない。今後小沼勝の作品群は女性たちの視線を通して、異様な「女性映画」の試みとして再発見されるだろう。その時、彼の映画での女たちの輝きはどんな意味を帯びることになるのか?

文・北大路隆志 「キネマ旬報」2001年2月上旬号より転載

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