「あの頃のロマンポルノ」 by キネマ旬報

 

第18回 日本映画批評 『狂った果実』

 2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえました。それを記念して、「キネマ旬報」に過去掲載された記事の中から、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げていく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時連載していきます。(これまでの掲載記事はコチラから)

 今回は、「キネマ旬報」19816月上旬号より、寺脇 研氏による「日本映画批評 『狂った果実』」の記事を転載いたします。

 1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく!

>■日本映画批評 『狂った果実
 男と女が、互いのからだをいつくしみあう。たとえば、主人公の少年と少女が、むさぼるように相手の躯を求め抱擁する、とか、いかがわしいバーで活計を得ている中年男と内妻が、ようやく迎えた祝言の真似事を喜ぶあまり少年の眼前であることも憚らず愛情を交歓するとか。それらの場面に表わされる彼らの思いのたけは、きわめて濃密だ。あけすけでいるくせに、気高さ、美しさ、さえ感じさせる。
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 肉体と肉体が、暴力を介してぶつかりあう。たとえば、激怒した少年が少女を殴打する、とか、富をだらしなく享楽している少女の取り巻き連中が、バーで狼籍の限りを尽くし、復讐に押しかけた少年と中年男との間に大乱闘したあげく、殺裁に到る、とか。噴出する憎しみや怒りは、拳と肉の衝突する音、流れる朱の血そのままに、鮮烈だ。

 性を通した愛情の描写、暴力を通した激情の表現が、みごとにそれらの真相をとらえている。愛したり憎んだりを、縄のようにあざないながら生きていく人間たちの姿を、等身大で映像化するのだ。恵まれた環境の中を奔放に暮らしている者も、社会の暗部を歯くいしばってさまよっている者も、ひとしなみに、ていねいな描写を施されている。ここでは、性も暴力も、衆目を惹くための具にとどまることなく、情感の媒介物として重要な意味を持つ。

 1978年、『オリオンの殺意より 情事の方程式』で登場した根岸吉太郎監督の七本目の映画だ。前々作『朝はダメよ!(80)、前作『女教師 汚れた放課後(81)と、それぞれすぐれた仕事を重ねてきたが、この『狂った果実』では、まさに、まったき結実を思わせる。軽妙さが、根岸監督の身上だ。『オリオンの殺意より 情事の方程式』でも使われた滞空競技用の超軽量模型飛行機が、画面をふわり漂って見せるけれど、透明な軽みを基調にした演出ぶりを、象徴するかのようだ。

 自然主義の小説よろしく、下層でもがく姿の重苦しさを強調していくのは、さほど難しい所業ではあるまい。物質面で充足している側の心の移ろいを的確に語ることこそ、容易ではない。これが軽妙に物語られ、対極にある底辺の人生と交錯するとき、双方が共に豊かな実在感をもって示される。その間に、僕たち誰もが逃れられない人間の業が、立体的に浮かんでくるのだ。愛も憎しみも、自身の内部の感情と、あまりにピッタリ波長が合致して、幕が閉まった後も、しばらく五感が痺れたままでいた。

> 映像の組立てが、どこからどこまで何ら違和感なく受けとめられる点などは、単に、根岸監督とぼくとが世代や感性の質をほぼ一にしているから、と説明できるかもしれない。しかし、こうまで鋭敏に、生が伴う愛憎を描破してのけている以上、身びいきでなしに、新しい日本映画の担い手の出現であることを、自信をもって広言したい。同世代の意識を持ち続けつつ、根岸吉太郎という作家と一緒に歩を進めてみよう。大げさにいえば、日本映画の新しい展開に僕も参加するつもりで。

文・寺脇 研 『キネマ旬報』19816月上旬号より転載

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監督: 根岸吉太郎 脚本:神波史男
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発売:日活株式会社 販売元:株式会社ハピネット・メディアマーケティング

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