「あの頃のロマンポルノ」 by キネマ旬報

 

第17回 追悼 映画監督 曽根中生(文:片桐夕子)

2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえました。それを記念して、「キネマ旬報」に過去掲載された記事の中から、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げていく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時連載していきます。(これまでの掲載記事はコチラから)

今回は、「キネマ旬報」2014年10月下旬号より、女優 片桐夕子さん寄稿による曽根中生監督の追悼記事を転載いたします。

1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく!

■追悼 映画監督 曽根中生
「お新と呼んでくれないなら返事しないからね」 文 片桐夕子

 片桐夕子。曽根中生作品に最もたくさん出演した女優だ。曽根監督が『ギャグの馬鹿馬鹿しさを、スラップスティックを撮ろう』と狙った『㊙女郎市場』を皮切りに、『不良少女 野良猫の青春』『㊙極楽紅弁天』の三作で「破壊的なまでに純粋無垢な女の子」という同じキャラクターを演じた。その片桐裕子が、曽根監督への想いをつづった。

 「僕の周りには、こんな美人はいない」
その時、曽根監督は私の顔を睨む様にして言いました。

2012年5月。渋谷のユーロスペースで曽根監督と映画評論家の山根貞男さんとトークイベントの後の打ち上げの店で私が「監督、私の顔覚えてる?」35年振りの再会でした。その言葉は又しても私を殺したのです。結局、私が自分の名前を言うまでおわかりになりませんでした(笑)。

 監督が長い間消息不明だった事も全く知りませんでした。と言うのも私も長年日本に居なかったからです。昔私が20才の頃にタイムスリップします。監督と映画で仕事をしたのは確か6本位だったでしょうか。何と言っても『㊙女郎市場』は私にとって格別思い出深い作品。冒頭のシーンでおつむの弱い女郎の「お新」に扮する私は撮影現場で行き成り裸牛に乗せられ撮影所裏の川原の道を嬉しそうに進むのですが、牛に乗ろうとすればするほど牛が暴れるんです。嫌がる牛の悲鳴に近い声を無視してスタッフ達が必死に牛を押さえつけ「さあ夕子今だよ。早く乗れ!」拒み続ける牛に私は殺される、と思いました。馬でも鞍をつけて本番に備えて練習するのに低予算のためか練習無し。やっと死ぬ思いで乗れたと思ったら、直ぐ本番。若冠20歳の女優は決して文句は言った事はありませんでしたが恐さでずっと震えていました。

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▲『㊙女郎市場』より

 演技について監督は何も言いませんでした。いつも下手で他の監督達を手こずらせる定評のある私には驚きでした。何か演技に対する呪縛みたいなのが解けて自由にセットを駆け巡る事が出来たんです。嬉しくって楽しくって朝から全開の毎日でした。

 皮肉にもあの牛をすき焼きにして食べてしまうシーンは辛かったです。私は肉が大嫌いでしかもこれ又嬉しそうに肉を頬張らなきゃあならないんです。本番が終わってセットの隅で吐き気と涙を堪えていましたっけ。

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▲『㊙女郎市場』撮影風景

 一笑に付されて当然ですが今思えば私は何て幸せ者だったんでしょうか。撮影中からこの映画の出来栄えはわかっていました。撮影が終わりに近づくと監督、スタッフ、そして役のお新と別れるのが辛いものでした。よっぽど名残惜しかったのでしょう。周りの人々に強制的に「お新」と呼ばさせ「お新と呼んでくれないなら返事しないからね」って。他の曽根組に入ってもいつも身体ごとズボッと漬かってしまい撮影休日は私には必要ありませんでした。ある日伊勢丹に日活の衣装部の鎌さんが他の組で使う衣装を買いに行くと言うのでついていきました。オシャレと言うものに全く興味が無かった私は伊勢丹で少し割り引いてもらって帰ると言う利点もあったので早速二着も買いました。高校を卒業して以来初めて服を買ったんです。未だ覚えています。サーモンピンクのスタジオVの体にピッタリフィットのワンピースとブルーのフリフリのルーズなワンピースです。監督の心を射止めたかったのです。撮影が終わって日活の食堂で監督とすれ違っても私のピンクやブルーの鮮やかな色は監督の目の中には、まるで映っていなかったんですね。

それ以来、いとも簡単に私は監督の事を忘れてしまいました。35年後の再会まで。

日活100周年パーティでお会いしたのは再会4回目かな?長い間苦労なさった監督のお顔を正視することが出来ず隣りに座って横から眺めていました。それと20代の頃とは明らかに変貌している私自身を監督の前で曝け出す勇気を持ち合わせていませんでしたので。

 最後にお会いしたのは今年の6月。監督が住み慣れた東京と監督業を離れ最後まで住んでいた大分の臼杵。その日女優の白川和子、宮下順子と私の三人は臼杵の映画のイベントに招待されました。傍に作られたステージに上って監督を含め4人でトークしましたね。臼杵の人々が知っているのは監督の曽根さんではなく、ひらめの養殖や何やらゴミの焼却炉の発明で一躍有名になった我等のチュウちゃんです。そば屋のおかみさんたちがそう呼んでいました。打ち上げの途中、よほど監督は辛かったと見えて青白い顔をして車イスで帰られました。それが私が見た最後のお姿でした。

 先日監督の出版された本について座談会がありました。ほとんど私の知らなかった監督のネガティブな事でした。本が売れなくなるよ・・・。それが影響したのか私自身少しずつ軌道修正している自分に驚いています。62才の女の想いなんていい加減なものなんですね。でも一つ言える事は女優冥利に尽きると言う言葉なんかに当てはまらない。もっとはるかに女優として私は心の底から曽根監督、貴男に感謝している事だけは永遠に不滅です。あちらでは何か他の仕事でも思案中でしょうか?いやいや監督、貴男は映画一本でやって下さい。もしもですよ。主演女優が未だに決まりそうにないなら私も候補の一人に考えて頂けませんか?但し期間だけは待って頂けると言う条件で。楽しみです。

2014年10月下旬号「キネマ旬報」より転載 

片桐夕子
1952年生東京都昭島市生まれ。70年、日活入社。曽根中生監督作品では72年の『㊙女郎市場』のお新役を皮切りに、『不良少女 野良猫の性春』『㊙極楽紅弁天(73)に主演。『くノ一淫法 百花卍がらみ(74)、『嗚呼!!花の応援団 役者やのォー(76)、『太陽のきずあと』(81)に助演。

「私、片桐夕子は33歳の時父親の死をきっかけに10年程日本に居ませんでした。その間、結婚、出産、離婚もしました。決して女優業を辞めた訳ではありませんが今では「名前は聞いた事があるけど顔がどうもねェ?」なんて言われているんじゃないかと思います。マア勝手に帰って来ているのです。それに「仕事」と言う私にとってチョット皮肉っぽい名前の事務所に所属しています。」

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