「あの頃のロマンポルノ」 by キネマ旬報

 

第6回『人妻集団暴行致死事件』①

今年2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえました。それを記念して、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げる定期連載記事を、キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時配信いたします。「キネマ旬報」に過去掲載された、よりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載していく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。(これまでの掲載記事はコチラから)

今回は、ロマンポルノ作品として1978年第52回「キネマ旬報ベスト・テン」の日本映画第9位に選ばれた『人妻集団暴行致死事件』をピックアップ。19753月下旬号より、斎藤正治氏による映画評を転載いたします。

1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく!

第6回:日本映画批評『人妻集団暴行致死事件』①

■土着のなかの両極の性の形態
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 『人妻集団暴行致死事件』では、私は、雑誌に頼まれて、シナリオ批評といったものもしている(「シナリオ」788月号)。間もなく、映画で見れるのに、何とご苦労な、の思いで書いた。この雑誌がよくやるシナリオを通したミニ作家論だが、発売が封切に合わせてあることもあって、作品評より遙かに書きにくい。シナリオ通りの映画が出来上るとは限らないし、シナリオがいいのに、作品がダメな場合、特にこの作業は惨めだ。シナリオ評価がまるで見当違いで読者を裏切ってると思われかねないからだ。いずれにしても余りワリの合う仕事ではない。

 しかし『人妻集団暴行致死事件』では、そんな惨めな思いをしなくてすんだ。私のシナリオに対する評価に対応してくれるに十分な作品が出来上がっていた。読みの通りの映像が、そこにはあった。だから、この作品評は、シナリオ評の、再認、あるいは追認という面もある。まずはメデタシ。私はシナリオ評で、「変らぬ川の流れ」を重視した。自然と土着のある近郊都市、差別された村落は、社会的な疎外から来る病者と痴者が群がっているが、彼らは病んだ者、呆けた者に特有な明るさがある、とまず舞台を分析した。田中登のとらえた村落と住民もそうであった。

 この集落、政治的・社会的な文脈からすれば、被差別部落である。シナリオは、そういう政治的ボキャブラリーをまったく排除し、ひたすら、住民の若者たちの、暴力の性と、中年男の純愛を描いている。田中演出も、彼の体質からして、当然、政治文脈でとらえることをしない。

 非政治的な言語が、文化の面では時にもっとも政治的な有効性がある、としたのはエンツェンスベルガーだったか、それにならっていえば、佐治乾も田中登も、媛小な政治文脈など意識の外に置いて、川岸と、そこに蝟集する人間を、つまり自然と性を主題に、見据えたからこそ、集落の内包する、誤解を恐れず云えばもっとも政治的なもの、にまで、語らずして触れることができたといえよう。

 流れを変えぬ川があって、川向こうから、ではなく、川のこっちに、足場を固めて、彼らを内側から描いた田中登の目は、現実には近くて、政治からは疎外されて遠い、形容自体がすでに矛盾する"近くて遠い国"の、病や痴に、深く据えられた。田中の『㊙色情めす市場』は、都会に巣なすふきだまりだったが、これは、自然のなかにうずくまる集落、いってみれば、いなかのふきだまりだ。そうみてくると、この二作品は田中の系譜のなかで、一対をなす。

 母娘の性を通した愛憎(㊙色情めす市場)の、都会のふきだまりを、農村の自然に移し、こちらは、ふきだまりの中の男の性をえぐり出した。

 男たちの性は、澱みのなかで、暴力の様相を帯びて活性化し、爆発が終ったあとは、中年の、もはや愛としか云いようのない性に純化していった。

 この両極の性の形態が、映画のハイライトであるが、もっとも異形な二つの性が、不易に流れる川の向こうに、共存する。土着のなかに起きたそれらのトータルが、田中の描きあげた世界なのである。

 関西の女たちの性(㊙色情めす市場)と、関東の男たちの性と、底辺の部分の、どうしようもないふきだまりに、視点を定めた田中の"東男"に"京女"の二部作は、かくて完結した、といえるだろう。

 私はシナリナ批評でも、屍姦シーンを「厳粛な儀式にまで昇華した屍姦の描写を知らない」と指摘しておいたが、屍体と性を共有するこのシーンは、純愛映画史に特筆さるべき優れたものであった。

文・斎藤正治 「キネマ旬報」19788月下旬号より転載

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監督: 田中登 脚本:佐治乾
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発売:日活株式会社 販売元:株式会社ハピネット・メディアマーケティング

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