「あの頃のロマンポルノ」 by キネマ旬報

 

第3回『四畳半襖の裏張り』

来る2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえます。それを記念して、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げる定期連載記事を、キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時配信いたします。「キネマ旬報」に過去掲載された、よりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載していく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。(これまでの掲載記事はコチラから)

今回は、ロマンポルノ作品として1973年第47回「キネマ旬報ベスト・テン」の日本映画第6位に選ばれた『四畳半襖の裏張り』をピックアップ。「キネマ旬報」197312月下旬号より転載いたします。>

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問題作批評:神代辰巳監督の『四畳半襖の裏張り』

エロスの幻想のなかに塗り込められた神代の大正史
恣意的な時間の再編成

佐藤信「喜劇・阿部定」で日付を解体した"昭和十一年史"を描いた。その年は二・二六事件が起き、阿部定事件が世間を騒がせた。イタリアのエチオピア侵略があって、英皇帝エドワード8世とシンプソン夫人の"世紀の恋"が記録された。佐藤はそのような年を惟み女と戒厳令、二・二六のピストルと男根を百層させたなかでイメージした。彼の記述した戦前史(あるいは昭和史)は、"事実"に対するしいの奔放さによって、あの時代をみごとに抽出したものとなった。佐藤信にとっては、男根切断の女に、天子サマへのあいより、抱きかかえた男根への愛の方が痛切だったという意味のことを言わせるのが歴史だった。戒厳令と阿部定、その生臭いエロスのイメージが、彼にとってはあの時代であった。

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四畳半襖の裏張り』を見ながら、私が「喜劇・安部定」を思い出していたとしても、それほど突飛ではない。「喜劇・安部定」が昭和十一年を軸にした佐藤の昭和史なら、『四畳半襖の裏張り』は、大正七年を描いて独自の歴史を編んだ神代辰巳の大正史と言える。

エロスで歴史を記述するために、しかし神代は不思議な恣意的方法をとったものである。袖子と信介のあの長い、技巧の限りを尽した情事の起伏のなかに、彼は大正七年という歴史を捕促しようとする。

米騒動が頻発し、鎮圧軍が出動した。一方ソビエトでは「三月革命」に続いて「十月革命」が起きた。シベリヤ出兵のあった年でもある大正七年を芸者と客によるエロスのなかに塗り込めるように彼は記述した。

大正七年、「夏の暑い夜」という設定ではじまる作品の不思議な方法からまず見てみよう。芸者柚子(宮下順子)が人力車で置屋へやってきた。性が安直に手に入る二流どころの花街が舞台だ。客ははじめての信介(江角英明)。富山から大阪に飛び失した米騒動の号外屋が走って、世情不安を背景にしてか、二人の情事はそんなことを話題にしながらはじまる。

情事のはじまりは夏の夜だった。蚊帳がつられた四畳半がしつらえてあって、二人はうねりに到達するために静かに始動する。ところが画面はつぎの展開では、芸者置屋「花の家」の夕刻になるのだ。半玉芸者の花丸が、抱え主の花枝とお座敷仕度のため、水おしろいを塗りたくっている。時間が、東京の花街のある夏の日に遡行していくのである。半玉芸者の花丸が、抱え主の花枝とお座敷仕度のため、水おしろいを塗りたくっている。時間が、東京の花街のある夏の日に遡行していくのである。その時から、作品は時間の順序を失ってしまう。

歴史は夜つくられる

一軒の置屋を主舞台にくりひろげられる、いわば人生色模様の登場人物は、袖子と信介の芸者と客、花枝と花丸の主従、それに芸者夕子と陸軍二等兵の恋人同志の三組。袖手・信介の情事の時間を筋として底通させながら、この三組はパラパラの時間を各自が持っている。例えばこんな具合いにだ。

夕子と二等兵の鶏の交尾に似たせわしげな情事は、夕刻前のいっときなのだが、「花の家」は午前の掃除時間である。鶏卵をマタにはさんで花丸が掃除や歩き方の練習に汗みつ流しているころは、柚子と信介にとっては、ようやく「鼻息荒くなる」時刻となる。

神代のこのような時間の秩序を無視した構成は、時間をバラバラに解体することで、自分の"歴史"の時間に編み直そうとの試みである。大正七年という歴史は、恣意的な時の再編成によって記述される。

袖子の動きが激しくなる時はもう深夜に近いだろうか。二人だけの密室の時計は明け方なのだが、くだんの貧農出身二等兵にとっては、練兵場で徹底的にしぼられ、殴られている白昼の時刻だった。各自パラパラのこのような生活の点描は、柚子の性の高揚の経過と関連し合うようにみえるが、決してそこに収敏していくというものではない。

袖子らの情事のうねりに直接的に合わせたエピソードは、掃間びん助の首吊りシーンだけである。

「気の遠くなりかける」ほど取乱しはじめた袖子の性感の高まりに対応して、別の座敷で封間の首吊りがはじまった。
あの快感は首吊りの慌惚感と似ていると、口をすべらせたばかりに耕間は華族のなれの果てのような旦邦に、では実際に首を吊っていい気持になってみよと強請される。このシーンはごく滑稽に喜劇的に描かれたことで、柚子の快楽をいっそう際立てさせた。

一回目の性交が果てて、柚子と信介が眠りこけている時間に、「三月革命」のスチール写真が挿入された。死んだように眠る間にも歴史は動いている。"歴史は夜つくられる"のである。そういえばもうひとつの仮死状態にあったあわれな報間は「三月革命」のあと、蘇生させられた。エロスの高まりと同じ地平に革命を透視しようとする神代の歴史記述は大胆で奔放だ。

>ここで見落してならないのは、「三月革命」の日付けである。革命は大正七年三月のことだった筈だ。しかし袖子の情事は繰返えすが大正七年夏の夜のことだ。日時をバラバラに解体していることはすでに見てきたが、作者は、月単位の長い時間をも編み直して自分の大正史に取込もうとしている。こうして三月の事件が、蚊帳のなかに、た。すっぽりと入り込んできた。

日常性を回復しドラマは終わる

大正七年の出来事を情事の時間に集約した長い夜が終わった。客の信介は「初会」にあられもなく燃えた女のいじましさに魅せられたのか、袖子を落籍して、料亭をもたせた。芸者からおかみへの転進で、時間を無視した大正七年は、現実の時計を取り戻すことになる。性感の揺れ動きのなかにあった幻のような時間記述は、その時から整序された時刻を刻んでいくのである。こうして柚子がおかみになったあとの歴史、つまり「シベリヤ出兵」から花丸のムホンまでは、"現実的事件"として描写される。蚊帳のなかで描いたエロス的歴史は、趣きを変えて、風雲急な時間とけだるい退廃の大正を描いていく。現実的事件としてのドラマは収束されなければならない、というかのように。

夕子と二等兵は相変らず束の間の逢瀬に急がしい思いをする。公用外出のこの二等兵はシベリヤ出兵要員として明日出発しなければならないのだ。男はせわしく抱かれて全力疾走で帰隊していく。あと一組の花枝・花丸。主人の花枝は客がとれず、いわゆるオチャをひいてふてくされ、欲情の処理に未通女である花丸を寝床に誘い込むというようなこともあって、花丸はつくづくこの女主人がいやになる。そこでしきたりを破って「水揚げしてくれる旦那を探してくれ」と袖子に頼み込む。そんな造反は露知らない花枝は、習慣になっているハエ取りに精出している。

ひと夜の長い情事のなかで解体された日常的な時間は、日常性を回復したところでドラマを終えるのである。

恋人たちは濡れた』までの神代の作品にはホモ・ルーデンスのイメージの強い人物たちが多かった。『恋人たちは濡れた』の青年は自分の出生や生存にすら積極的な関心を示さない。母も故郷も拒んで、およそ生甲斐を放棄したところで生きていた。そんな人物のけだるさが、作品に無常観として色濃く投影していた。『四畳半襖の裏張り』も例外ではない。袖子の自分の性で人生を転がしていく姿は、性が高揚すればするほど、青年にみた遊びのけだるさに似たものを帯びてくるのである。

ただ『四畳半襖の裏張り』が他の作品と際立って違うのは、他の作品が雑駁に云えば人を描いて状況を浮彫りにしているのに対し、エロスを通して歴史を記述した点にある。歴史は記述者の恣意によってつくられる。とすれば、佐藤信がエロス幻想に血ぬられた昭和史を書いたように、神代もすぐれてユニークな彼の大正史を持ったといえる。

斎藤正治「キネマ旬報」1973年12月下旬号より転載

四畳半襖の裏張り』【Blu-ray】>
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原作:永井荷風 監督・脚本:神代辰巳
価格:4,200円+消費税
発売:日活株式会社 販売元:株式会社ハピネット・メディアマーケティング

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