さて、この連載も2回目に。白状すると、初回を書き上げた時点で、次から何を書いてよいのやら、まったくの霧の中。
かつて自分が書いたロマンポルノのシナリオをめぐる人々との出会いのあれこれで、長丁場をしのごうとも考えたが、制作現場のスペシャリストの皆様が連載されている本サイト内では、いささか影が薄くなりそう。
考えあぐねて煮詰まっていたところ、ようやくひらめいたのが、ロマンポルノという高峰を遥かに下界から仰ぎ見ていた身も心も貧しき若輩者が、いきなり引き上げられて、その偉容を一瞬でも間近に見てしまい、再び下界に突き落とされた後、その鮮烈な記憶を糧として如何に生き長らえなければならなかったか、というコンセプト。
この観点なら、刺激だらけの昨今、花も実もあるロマンポルノのサイトを殊勝にもチョイスされた文字どおりロマンチックな方々の琴線に多少なりとも触れるのではないかと思ったのだ。当方としても、これなら風まかせで書き進めそうだし。
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ということで、話は唐突に少年の日々へ遡る。
私は生れこそ恵比寿だが、生後の3ヶ月間いただけで、後の20数年はずっと立川。小学生の頃、この立川の街がある日を境にロマンポルノに占拠されてしまったのだ。
ある日とは立川大映が日活ロマンポルノの上映館に切り替わったこと。この「事件」が小学生だった私に与えたインパクトたるや絶大。何しろ通学路も含めた自分の行動範囲内だけで7ヶ所あった街貼りの映画ポスターの大映枠が、すべからくピンクの乳首も露なロマンポルノに貼り変わったのだから。
「奥ゆかしくもH」、字だけで興奮しもんです。ここからロマポ始まる! |
ロマンポルノのスタートが『団地妻 昼下がりの情事』と『色暦大奥秘話』であることは、今さら書くまでもないが、これらの公開日は昭和46年11月20日。
立川大映がロマンポルノの上映を開始したのも、この日だったのかどうか。びっくりしたのもつかの間のことで、極彩色のポスターという形態で日常の中に遠慮会釈なく入り込んできた裸の女性達も、すんなり風景に溶け込んでゆくことになる。
当時の立川という街は、それだけ猥雑なエネルギーに溢れていた。 何しろ米軍基地と競輪場の街。いたるところに歓楽街はあったし、ストリップ小屋やらトルコ風呂やらも一通り揃っていた。小児科医院とラブホテルが仲良く並んでいたくらいだから、裸身に縄を食い込ませて恍惚と喘ぐ女もフンドシ姿の凛々しい海女も、何ら違和感なく日常と共存できた。ただ、少年の私には立川大映が『大魔神』や『ガメラ』のシリーズで通い詰めていた映画館ではなくなってしまったことに、一抹の寂しさをおぼえたが。
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だが、そんな感傷も、小学校への行き帰りに眺めるロマンポルノのポスターの隠微な楽しみが帳消しにしてくれた。
ワイズ出版から出ている『日本映画ポスター集アナーキー篇・ポルノグラフィ』を開くと、ロマンポルノのポスターの変遷を知ることができて面白い。
初期の頃の『ラブハンター 恋の狩人』や『OL日記 牝猫の匂い』なんかは何ともムーディで美麗。中期の『堕靡泥の星 美少女狩り』や『東京エロス千夜一夜』あたりになると、もっと裸身の持つギラギラしたパワーやゴージャスさが。
カッコいい!特に初期のポスターは。 |
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そして後期に入ると、規制をあおりで肝心要の乳首を見せなくなり、何のジャンルの映画なのか定かでない中途半端な出来に成り下がってしまっている(拙作『ロリータ妻 微熱』のポスターも、ドーンと太腿が出ているだけのアイドル映画?のようなビジュアルで、ガッカリした記憶が)。
(トップの写真の右下にあります。)
まあ、当時はこういったロマンポルノのポスターをじっくり観賞していたわけではなく、チラリと横目で眺めていただけ。周囲の視線や小学生という立場もあったし。
だが、一度だけ目が釘付けになってしまったポスターがある。それは残念ながらロマンポルノではなく、洋画の『悪魔のはらわた』。女性の乳房からヘソあたりまでが全面アップになっていて、腹部には生々しい手術の跡が。アンディ・ウォーホール監修のスプラッタホラーのはしりとして名高い映画だが、「今飛び出す、悪魔のはらわた!」という当時のテレビスポットのナレーションも、まだ耳に残っている。
(『悪魔のはらわた』ポスターこちらのページにありました。)
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ギラギラ!通学路で小学生の頭はウニ状態。いい時代です。
(1979年10月27日同時上映の2本) |
日々、このような刺激に晒されていたせいもあり、自分も含めて周囲の子供達は幾分猟奇的な傾向にあったように思える。犬や猫が死んでいるという情報があれば、大挙して遠路も厭わず見に行った(まさに『スタンド・バイ・ミー』のノリ)。
(『スタンド・バイ・ミー』はこちらにありました。)
ある時、競輪場帰りのオッサン達の大集団の中に、アイアンクローの怪人がいるという情報があった。さっそく同級性の何人かで出かけてみた。その頃、競輪場がはねた後に立川駅へ向かう大集団の規模はハンパでなく、逆行はまず不可能で、人も車も立ち往生といった状況。子供達は商店と商店の間の狭い通路に張り込み、アイアンクローの怪人が通りがかるのを何日もかけて待ったが、ついに発見できなかった(高校生の頃、ようやくその人物に出会えた。サイボーグのような鉄製の義手の持ち主で、思わずサインを貰いたくなるほど感激した
他にも、リッカーミシンの工場にサリーちゃんのパパがいるという情報が。やはり大挙して出かけ、門の前に張り込んだ。すると、5時の終業と同時に、ポマードで髪を塗り固めて両サイドでカニの足のようにおっ立たせた男が駆け出してきたではないか。ちょっと太めだったが、「サリーちゃんのパパ」という表現が、どこぞの総理大臣なんかと比べものにならないくらいサマになっていた。これには一同歓声を上げて喜び合った。後々も気持ちが沈んでいる時には、彼をわざわざ見に出向いた。5時になるとただ一人逃げるように工場から出てくるところから考えると、組織内でも孤立した変人だったのではないか。その後、リッカーミシンは倒産したが、彼の身の振り方が心配でならなかった。
(サリーちゃんのパパはこちらで見うけられました。)
ロマンポルノに話を戻すと、立川大映の裏の敷地に、ダンボールに詰まった大量の裸のスチール写真が雨に濡れてブヨブヨの状態で放置してあるという情報が。
さっそく日曜日の朝、6時頃に起き出して、友人と二人で裏手へこっそり忍び込んだ。でも、それらしき物体は見当たらず、ガッカリして帰った。その代わり当時のテレビ番組の変身ヒーロー『ダイヤモンドアイ』のソフビ人形を拾った。
名前の所以でもあるダイヤに見立てたプラスチック製の目玉が一つ欠けていた。スチール写真は人形の持ち主に奪われたのかもしれない。
「規制」によりこうなりました。ショボン |
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インターネットで調べたら、『ダイヤモンドアイ』の放映は昭和48年10月。これは小学校6年生の時のお話。
(『ダイヤモンドアイ』ソフビ人形はこちらで見受けられました。)
当時を振り返ると、性的な知識では他の子供達より勝っていたように思える。住んでいた団地の階段の各所に三流劇画雑誌が山積みになっていて、読み放題。特に衝撃を受けたのが後年『がきデカ』で有名になる山上たつひこの『喜劇新思想体系』。
この漫画は結合中の男女の器官を、具体的な断面図で「あーっ、下半身がとろけそうだ」というセリフまで付けて描いていた。こういったエロ漫画・エロ劇画を乱読した結果、得られた豊富な知識がひそかに小学校内で評判になり、上級生も含めた他の子供達から「何でも知っている奴」として、お座敷がかかるようになってきた。呼ばれた場で、少年の私は男女の営みについて細述したが、総括として「君らのお父さんとお母さんだって、そうなのさ」と、付け加えることで彼等をパニックのどん底に突き落とすことを忘れはしなかった。
(『喜劇新思想体系』はこちらに紹介されています。)
こう書くと、子供の頃からエロ一筋のようだが、三流劇画だけでなく乱歩やルブランの探偵物や漱石やら春男、龍乃介等の明治大正の文学にも親しんでいた。その頃は大人になったら作家になろうと心に決めていた。というか、担任だった女教師がしきりに勧めてくれるので、すっかりその気になってしまっていた。
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はじめてのロマポ体験?『ピンクカット・太く愛して深く愛して』の渡辺良子。(DVD『猟色』新発売中!) |
ある日、自転車が盗まれた。友人達と探し回って、ついにマイ自転車に乗った犯人の小学生を発見。皆で力を合わせて追い詰める。
犯人は自転車を乗り捨て、自宅に逃げ込む。友人達とその玄関先で犯人の母親に談判するが、犯人の母親は我が子を庇うあまり、こちらを怒鳴りつける有様。そこでこちらも母親を登場させ、両者が激突・・・・・・という出来ごとを作文にしたら、担任の女教師が授業中に皆の前で読んでくれた。
犯人が自転車を乗り捨てた際、横倒しになった自転車の「車輪が回っていた」という表現がとても良いと褒めてくれた。
それ以降、作文にだけは力を入れるようになった。
女教師は何を書いても面白がってくれて、卒業の際も「オンリーワン(唯一無二の個性という意味か?)」という言葉とともに、「物を書く人になりなさい」と泣きながら励ましてくれた。中学と高校でも担任から同じことを言われたので、よほど何か書けそうな雰囲気があったのだろう。
だが、期待に反して「物を書く人」にはなれなかった。
まあ、人生なんてそんなものさ。
再び話を立川大映のことに戻すと、実際には一度も入る機会はなく、いつの間にかなくなってしまった。今では大映があった通りは道幅も広くなり、往時の面影はまったくない。もしかしたら道路拡張に伴って閉館せざるを得なかったのかもしれない。同じく市内にあった他の九つの映画館も櫛の歯が欠け落ちるように消えてゆき、やがて全滅。
現在の立川は、30年前とは別の相貌の街に変わってしまった。
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『天才監督』として彗星のように現れた森田芳光監督。『ピンクカット〜』現場スチール。 |
初めて観たロマンポルノは何で、どこの映画館だったのだろう。それがまったく記憶にない。二十歳くらいの頃、根岸吉太郎監督が『遠雷』で評判を取った際、次回作の『キャバレー日記』を友人らと横浜で観たが、それが最初だったろうか。
それとも、森田芳光監督の『ピンクカット 太く愛して深く愛して』を石堂淑朗が『映画芸術』誌上で絶賛しているのを読み、どんなものか観に行ったが、それが最初だった気もする。場所は覚えていないが。 |
いや、ロマンポルノのシナリオを書く1年程前にプロデューサーの細越省吾氏から「ロマンポルノに関心があるか?」という電話をいただき、翌日あわてて氏がプロデュースした『春画』を国分寺へ観に行った。その時が確か最初のような気も・・・・・・。作品リストをチェックすると、この中では『キャバレー日記』が公開年が一番前。でも、リスト中でそれよりもっと以前の『美姉妹 犯す』も観ているので、わけがわからなくなる。
高校の頃、友人らとエッチな映画を観ようということになった。自分としてはポスターの前を通りすぎるだけの関係だったロマンポルノと、今こそ親密になれる絶好の機会の到来と思ったが、「和製ポルノは周りの女性が信じられなくなるので、やめた方がよい」という友人らのウブな主張を受入れてしまい、池袋での洋ピン観賞になった。
後ろの席から頭が見えないように座席に深々と腰掛け、股間をバッグでしっかり隠して、ドキドキしながら観始めたが、画面は「意地でも見せない」とばかりに加工されていて、そこで営まれている行為の大まかな状況さえ見当がつかず、失望落胆して帰路についた。
あの時、友人らを説得して立川大映に行っていれば、ロマンポルノ初体験の記憶が鮮明なものとなり、今回の話もそれなりに締めくくることができたのに。
まあ、人生なんてそんなものさ。
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『春画』より。このからみも記憶の向こう? |
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立川大映の隣に病院があった。
今ではホテルのような大病院に建て替わっているが、当時は入院患者が皆死ぬという評判のお化け屋敷じみたオンボロ病院だった。その敷地の道に面したところに小さな箱庭があって、道行く人々を楽しませてくれた。
本当のことを書くと、少年の私はロマンポルノのポスターより、この箱庭を眺めている方がずっと好きだった。でも、その細部を今ここに描出しようとすると、記憶の網の目をすり抜けてしまい、池があって船が浮かんでいたことくらいしか書けない。
自分の脳裏にある30年前の立川の街も、立川大映でロマンポルノを観るという最後のパーツが揃うことが適わず、記憶の中の箱庭のように虚ろなまま放置されている。
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期待に反して「物を書く人」にはなれなかった?
いえいえロマン斎藤支配人、あなたはすでに「物を書く人」です。脚本作『ロリータ妻・微熱』もこのコーナーも支配人日記も。そしてきっとこれからも。
そう、人生なんてそんなものさ!
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註:本文の理解を補足する為に、参考のリンクを貼らせていただきました。いずれも権利主体への侵害及び利益を損なう意図を持つものではありません。
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| (続く) |
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