Web採録
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『和服熟女 三十路のさかり』公開記念
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「日活ロマンポルノ館」では、さる8/10に行われた舞台挨拶『和服熟女 三十路のさかり』の様子を、2週連続で詳細にお伝えしてきました。
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舞台挨拶レポート『和服熟女 三十路のさかり』
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(8/31up)
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後 篇
(9/7up) |
『和服熟女 三十路のさかり』 舞台挨拶 |
今回は、その監督をされた工藤雅典さんに独占インタビュー!!
工藤監督は日活に入社し、ロマンポルノの助監督として映画を修行した筋金入りのロマン人です。ロマンポルノで育った最後の助監督といっていいでしょう。
監督はいかにしてピンクで映画を作り続けていくのか、またロマンポルノは監督にとってどんなものであるのかを徹底的に語っていただきました。
まだまだロマンポルノは終わっていないのだと工藤監督は語ります。
レポート その1「助監督で現場でやってることが監督としてそのまま役に立つかっていうと、そんなことはあんまり無くてですねえ(笑)…。でも僕はロマンポルノに間に合ってるから、幸運だったって言えると思う」 |
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工藤:僕が日活に入社したのは83年(昭和58年)です。 その年は芸術職という、なんだかすごいお題目の募集だったんですよ。それに応募しまして7,8人入ったのかな、助監督と企画製作とデスクの製作調整とに分けられた。 大学で8ミリを撮ったりはしてたんだけど、まさか仕事として映画が出来るとは思ってなかった。 ロマンポルノは良く観ていて、札幌で浪人をしていたんですよ。その頃から、当時あったススキノ日活によく通っていました。 今はないけどススキノ日活は直営館の中では1番大きな小屋でしたね。 あんまり監督がスゴイとかで観ていたわけじゃなくって、もう単にスケベ心で(笑)観ていました。大学時代も映画青年ってわけじゃなかった。 たまたま採用にはなったんだけど、初め助監督にはしてもらえなかったんです。 助監督志望とは書いたんだけど、後で聞いたら試験の成績のいい3人が助監督に配属されて、僕はその3人に入らなかったんで(笑)助監督にはしてもらえなかった。
1番初めに現場につく同期の助監督3人と僕と食堂に呼ばれて、会社の人がカチンコを渡すんだよね。3人に。目の前で渡すわけ。で、僕だけ製作だからもらえないんだよね。それがねえ、悔しくてね。 同期は両沢(和幸。『ナースのお仕事』等TVのプロデューサー・脚本家)と芳田(秀明。『スイート・スイート・ゴースト』('00)でデビュー。)とか。
初めて製作進行でついた現場は、伊藤秀裕さんの『猟色』(渡辺良子主演)。 1年も進行はやってないんだけど、準備なんかやらないで現場から現場につかされてたから5、6本はやったんじゃないかな。 とにかくその年が1番忙しかった気がする。殆ど家に帰れなかったから。 この年まで残業代がついたんだよ。2年目からはつかなくなったんだけど。 ●念願の助監督になる。 工藤:2年目に会社に直訴というか、助監督にして欲しいって希望出してまあ希望が通った。 助監督の1本目は川崎善広監督の『踊る乳房』。
でも会社の企画やってる人なんかに、お前はいいよなあなんて言われたりしたから、先輩で企画や製作で助監督になりたい人はけっこういたんだろうから、これは責任があるんだなあってちょっと思ったりもしました。ちょっとだけで、あといいかげんだったって説もありますが(笑)。
同期の助監督とは1年遅れて助監督になったから、同期の人にはちょっと劣等感というかあったりもしましたね。 1本目は見習いでホントに何やってるのが全然分かんなかった。大抵2人助監督ついて、3人目は見習いとかなんだけど、初めて2人でついたのは西村昭五郎さんの組でした。
児玉(高志)さん(『ザッツ・ロマンポルノ』等)が演出部の1番上で、その下に中原俊さん(『3年目の浮気』)・那須博之さん(『美少女プロレス・失神10秒前』)・加藤文彦さん(『団鬼六・妖面能面地獄』等)・堀内(靖博)さん(『主婦と性生活』)とかがいて、その下に村上修さん(『イブの濡れて行く』)がいて、その下に金子修介さん(『宇野鴻一郎の濡れて打つ』)とかがいた。 製作で初めてついた『猟色』の時に、夜、監督の伊藤秀裕さんとチーフの村上さんが飲んでて、その日から参加するセカンドの金沢(克次)さん(『ラブゲームは終わらない』)が、上下アーミーの米軍服にレイバンのグラサンで登場したんだよね。 金沢さんて本人は凄く優しい人なんだけど。 まあ、見かけとは違って先輩の助監督の人は優しい人が多かったよね。
●工藤さんの1代下の中田秀夫さん(『女優霊』)はロマンポルノを数本しか体験できなかったわけですから、工藤さんはロマンポルノから生まれた『最後の助監督』といえるのではないでしょうか。
工藤:入った時は、ロマンポルノを会社が会社の自前のスタッフで作ってて、もちろん助監督でもフリーの人と一緒にやるんだけど。 だからロマンポルノの時は、助監督でロマンポルノについていろんな監督の組を経験して、自社作品のロマンポルノで監督になっていく、そんな流れがあった。 ロマンポルノを止めてから日活はロッポニカっていう一般映画制作を始めたけど直ぐにダメになって、TVとかで細々とやるくらいで制作がドンドン減っていった。 それを思うと僕はロマンポルノに間に合ってるから、幸運だったって、ホントかな(笑) 撮影所で自前のスタッフが作って、日活の映画館にかけるっていうプログラム・ピクチャーとしてロマンポルノはやってたわけだから、まあ撮影所が撮影所らしかったのをその中で体験できたからね。 ●撮影所が自分で作るというシステムで、学ぶところの多かったのはどんな所でしたか? 工藤:それがねえ、助監督で現場でやってることが監督としてそのまま役に立つかっていうと、そんなことはあんまり無くてですねえ(笑)
言ってみれば、映画を作るってことに取り組む姿勢みたいなことが勉強になったと、後で考えればだけど思います。 具体的にからみを撮る時に、カット割りが参考になったとか演出方法がどうとかって直接に勉強になってってことは…あんまり無いよね(笑)。 監督がどんな風に演出するのかっていうのは、監督になって実際にやってみないと分かんない(笑)部分が多いと思うんだよね。 僕の1本目はテレビの「世にも奇妙な物語」だったんだけど、もう夢中で何が何だか分からないような感じで、その後何本かやっても助監督時代の経験が直ぐそのまま活かされたってことはあんまりなくって、もうどおしていいか分からずに右往左往してたような気がする。 ロマンポルノで助監督やってフリーになるまでのことで言えば、監督になる上でよかったのは、けっこう他の仕事出来なくなるくらいにもう後戻りできないくらいの年齢にもなったし、これはもう監督やるしかないんだ(笑)みたいな覚悟が出来たというのが1番良かったんじゃないかと思います。
あともう1つ言えるのは、今僕はフリーで主にピンク映画を撮ってるんだけれど、からみが普通のシーンとして、特別なことじゃなく、自然体で撮れるということがあって、それは正しくロマンポルノの現場をやってたから出来るんだと思います。 多分ロマンポルノをやっていなかったら、からみとかすごく構えちゃって、撮りずらかったでしょうね。
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(続く) |
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